一中健児之塔



一中戦没学徒資料室


沿 革

一中健児之塔は、1950年(昭和25年)4月30日に旧沖縄県立第一中学校同窓会の浄財により元同校寄宿舎養秀寮跡に建立された。その後、創立百周年記念事業として養秀会館の建設と同時に一中健児之塔の改修移設が行われ、1979年(昭和54年)に除幕式、入魂式が挙行された。

一中健児之塔は、正面には、平和を象徴する鳩とそれを支える万人の手をデザインした白・黒・ベージュの大理石の壁面装飾があり、その上に久米島産の2トンもある緑石の一中健児之塔の碑が置かれている。供花台はギリシャ産の2トンの大理石の切石をそのまま使っている。

「一中健児之塔」の揮毫 島袋光祐氏(大正2年卒)
デザイン 喜村朝貞氏(昭和26年卒)

第二次世界大戦の終盤、1945年(昭和20年)3月27日、沖縄県立第一中学校(首里高等学校の前身)においては、米軍の砲爆撃下この地で異例・悲壮な卒業式が挙行され、第五学年生と第四学年生が同時に卒業し、ただちに第三学年生と共に鉄血勤皇隊が編成され、第五砲兵司令部に配属された。また、前年11月から通信隊要員として教育訓練を受けていた第二学年生は、3月28日、少年特別志願兵として電信兵第三六連隊に入隊を命ぜられ、各無線中隊に配属された。

鉄血勤皇隊、通信隊の学徒兵は、郷土防衛のため若い血潮を燃やしつつ、陣地構築、通信、伝令、弾薬・糧食の運搬、戦傷兵の輸送その他の任務に精魂を傾け、熾烈な砲爆撃下に決死敢闘、対戦車肉薄攻撃、挺身斬込みに参加し、終始軍の一員としてその責務を遂行した。

非戦闘員であるべき学業半ばの年端もゆかぬ二百有余の学徒兵は、若い尊い命を失った。

先の戦争では、教職員、学徒兵を含め、八百有余の同窓の方々が戦没された。まことに痛恨のきわみである。
1940年(昭和15)年の沖縄県立第一中学校創立60周年記念事業として養秀寮が建設されたゆかりのこの地に、一中健児之塔を建立し、志むなしく斃れた一中健児を追慕し、謹んで御冥福を祈り、世界の恒久平和を希求する。

一般社団法人養秀同窓会

一中健児之塔慰霊祭

一中健児之塔の慰霊祭は毎年慰霊の日の6月23日に、首里高校の職員生徒が同窓会と協力し、式場の設営、当日の進行その他を運営し執り行われています。

正午の時報で全員起立して黙祷を捧げ、首里高校吹奏楽部と合唱部のリードによる「一中健児之塔の歌」斉唱に始まり、同窓会会長の式辞、参列者の焼香、首里高校生徒代表の恒久平和と二度と戦争を起こさないという願いを込めた誓いの言葉、学級代表による献花、空手部、なぎなた部の奉納演武の後、校歌を斉唱しオオゴマダラの放蝶により慰霊祭の幕を閉じています。

その後引き続き親睦会が行われています。

一中健児之塔刻銘碑

一中健児之塔刻銘碑の建立については、国学創建200年、沖縄県立第一中学校・首里高等学校創立120周年記念事業として取り組んできた。2001年(平成13年)7月に刻銘問題検討委員会(上原委員長)を発足させ、総務、調査、意匠、財務、広報の各部会を設置し何十回も会合を重ね白熱した討議が交わされ、同年12月に、上原委員長から、刻銘する戦没者の範囲、設置する場所、事業費、工事スケジュールなど刻銘碑建立について、田端同窓会会長に答申された。

その後、刻銘碑は多くの同窓生やご遺族の方から励ましと多大なご協力を頂き、特に、一中世代の同窓生の皆様に多額のご寄付をいただき、無事2002年(平成14年)5月19日に竣工した。除幕式は、6月23日の慰霊祭に先立って多くの関係者列席の下、田端会長、上原建立実行委員長、遺族や戦没生徒の同期生代表、田場首里高校学校長、生徒代表ら6氏により石碑を覆っていた白い幕を引き、除幕を行った。

刻銘碑は、既存の一中健児之塔の左側壁面の前に建てられ、高さ1.8m、横5.53mの黒御影石造りで、碑の上段に縁取られた一中の校章の「桜」が金色に輝き、一層の重みを増し、一中戦没学徒追悼に相応しい碑となっている。

以上、経過などを概説しましたが、刻銘碑建立までの種々の曲折を経ており、とてもこの説明では言い尽くせません。刻銘碑の意義や、経過など詳しくお知りになりたい方は、ご意見・お問い合わせページよりご連絡ください。